家賃を滞納している入居者がいても、物件は売却できます。入居者が立ち退かない、連絡がつかない。そんな状態でも、入居者が住んだまま賃貸借契約ごと買主へ引き渡す「オーナーチェンジ」という売り方があります。
ただし、売った瞬間にすべてが買主へ移るわけではありません。物件そのもの、貸主としての立場、すでに溜まった滞納家賃、部屋を明け渡してもらう手続き。この4つは、売却時の扱いがそれぞれ違います。区別しないまま契約すると、引き渡したあとで「滞納分は誰が請求するのか」「裁判は誰が続けるのか」がもめる原因になります。
退去を迫る前にも、あわてて値下げする前にも、まず滞納額とこれまでのやり取りの記録をそろえます。その同じ資料を使って、「入居者がいる現状のまま売る場合」と「問題を片づけてから売る場合」の2通りで査定を取る。ここが出発点です。
| 現在の状況 | 売り方の第一候補 | 最初の対応 |
|---|---|---|
| 入金の遅れが始まったばかりで、連絡は取れる | 支払いを立て直しながら、現況のままの査定も取る | 入金の行き違い、保証会社への報告期限、今後の支払予定を確認する |
| 滞納は続いているが、実行できそうな支払案・退去案がある | 合意して売る場合と、現況のまま売る場合を比べる | 口約束で済ませず、合意書の内容を弁護士に見てもらう |
| 滞納が続き、連絡もつかない | 現況売却と、法的な明渡しを並行して比べる | 安否に危険がないかを確かめ、連絡・郵便・入金の記録をまとめる |
| 契約解除や裁判、強制執行が進んでいる | 手続きを続ける場合と、抱えたまま売る場合を比べる | 売却後に誰が手続きを続けるのかを弁護士に確認し、費用と回収金の扱いを契約で決める |
| 滞納はないが、売却のための退去に応じない | 入居者がいるままの売却を先に検討する | 「売りたい」という理由だけで退去を強制しない |
査定を頼む前に、手元で確かめておきたいのは次の5点です。
- どの月の家賃が入っていないか
- 契約は更新のある普通借家か、期間満了で終わる定期借家か
- 保証会社へ報告する期限を過ぎていないか
- 入居者から最後に返事があったのはいつか
- 異臭や漏水など、安否に関わる異変はないか
家賃滞納中でも売却できるが、すべてが買主へ移るわけではない
家賃が滞納されていても、所有者が物件を売ること自体は止められません。通常の居住用賃貸なら、売買を成立させるのに入居者の同意はいらないからです。
問題は、つい一つにまとめて考えてしまう3つの話が、実は別々だという点です。物件を売ること。溜まった滞納家賃を買主へ引き継ぐこと。入居者に出ていってもらうこと。この3つは、法律上も実務上も分けて扱われます。
物件・貸主の立場
買主へ移る
売却前の滞納家賃
売主に残る
入居者が住み続ける権利
売却では消えない
貸主としての権利と義務は、原則として買主へ移る
入居者がすでに部屋の引渡しを受けて住んでいれば、その賃貸借は新しい所有者にも通用します。この状態で物件を売ると、貸主としての権利と義務は、そのまま買主へ移ります。ただし、買主が入居者に対して「今日から私が貸主です」と言えるようになるのは、所有権移転登記を済ませてからです(民法605条の2、借地借家法31条)。
売却後も、賃貸借契約はこれまでの条件で続きます。買主はこれからの家賃を受け取る代わりに、修繕の義務も、退去時に敷金を返す義務も引き継ぎます。
ここで見落とされやすいのが、引き継がれる敷金の額です。預かった全額がそのまま移るとは限りません。判例では、所有権が移る時点で前の貸主への未払家賃があれば、その分は敷金から差し引かれ、残った額を返す義務だけが新しい貸主へ移るとされています。
金額は、ほかの未払金や契約条項でも変わります。保証会社が入居者に代わって家賃を払っていれば(代位弁済)、その扱いも影響します。買主が引き継ぐ敷金がいくらになるのか、そしてその金額を売買代金でどう精算するのか。この2つは分けて整理し、契約前に弁護士へ確認してください。
売却前に発生した滞納家賃は、自動では買主へ移らない
自分が貸主だった期間に発生した滞納家賃は、物件や貸主の立場と一緒に自動で買主へ移るわけではありません。買主に引き継いでもらうには、滞納家賃を請求する権利をゆずる「債権譲渡」という手続きが必要です。
進め方は3段階です。まず、どの月のいくらが未払いか、遅延損害金や保証会社の支払いはどうなっているかを特定する。次に、売主と買主で譲渡に合意する。最後に、売主から入居者へ通知するか、入居者の承諾をもらいます。さらに、その請求権を差し押さえた第三者が現れた場合の優先関係まで固めたいなら、内容証明郵便など、日付を公的に証明できる形で通知または承諾を残しておく必要があります(民法467条)。
なお、過去の滞納家賃を買主へゆずったからといって、買主がその滞納を理由に必ず契約を解除できるとは限りません。滞納後の経過や、権利の引き継ぎ方によって結論が変わります。売買契約を結ぶ前に弁護士へ確認しておくのが安全です。
入居者が部屋を使う権利は、売却だけでは終わらない
所有者が変わっても、入居者が部屋を使っている状態も、賃貸借契約も、自動では消えません。立ち退かない入居者がいるまま売る場合、買主はその状態ごと引き受けて購入することになります。
| 項目 | 基本的な扱い | 売買契約で決めること |
|---|---|---|
| 物件の所有権 | 買主へ移る | 移転日、代金、登記、抵当権の処理 |
| 貸主としての権利と義務 | 入居者が住んでいれば、原則として買主へ移る | 基準日、契約書原本、入居者への通知 |
| 敷金を返す義務 | 売却時までの未払家賃などを差し引いた残額を、買主が引き継ぐ | 差し引く項目、引継額、売主・買主間の精算 |
| 売却後の家賃 | 新しい貸主の収入になる | 日割り・月割り、振込先を切り替える日 |
| 売却前の滞納家賃 | 売主に残る | 売主が回収するか、買主へ請求権をゆずるか |
| 明渡し・訴訟 | 売却だけでは終わらない | 売却後に誰が手続きを続けられるかを弁護士に確認し、費用と回収金の負担を決める |
| 管理・家賃保証の契約 | 自動で引き継がれるとは限らない | 引継ぎ、終了、再契約、相手方の承諾 |
家賃滞納がある物件の売り方は3つ
向いている売り方は、4つの条件で決まります。売却の期限、資金の余裕、入居者との連絡状況、そして空室になったときの需要です。退去させてから売る、という道だけが選択肢ではありません。
滞納も賃貸借の状況も開示したうえで、入居者がいるまま売る方法です。
向くケース:売却期限がある、毎月の持ち出し(自己負担)を抑えたい、連絡不通が続いている
注意点:買主が投資家や不動産会社に限られやすく、問題解決の費用とリスクが価格に反映されます。
支払いや任意の退去について、入居者と合意してから売る方法です。
向くケース:連絡が取れ、実行できそうな支払案・退去案がある
注意点:合意が守られないと時間だけを失います。曖昧な口約束は、買主の安心材料になりません。
契約解除や明渡しを終え、空室にしてから売る方法です。
向くケース:空室なら買主層が広がり、解決までの費用も負担できる
注意点:訴訟、強制執行、置き去りにされた荷物(残置物)の処分、修繕に時間と費用がかかります。
4つの質問で、売り方の優先順位を決める
3つのうちどれか一つを、いま決める必要はありません。次の順に答えていくと、先に比べるべき方法が絞れます。
| 判断する質問 | 「はい」の場合 | 「いいえ」の場合 |
|---|---|---|
| 異臭・漏水・異常音など、安否や建物への危険が疑われるか | 売却の判断より安否確認を優先し、警察・消防・管理会社へ連絡する | 次の質問へ進む |
| 売却期限が迫っている、または毎月の持ち出しが重いか | 現況売却の仲介査定と直接買取を先に比べる | 次の質問へ進む |
| 入居者と連絡が取れ、実行できそうな支払案・退去案があるか | 合意内容を書面にした場合と、現況売却を比べる | 次の質問へ進む |
| 明渡し費用と待機期間を差し引いても、空室にして売るほうが手元に多く残りそうか | 弁護士に解除・明渡しの見通しを聞き、明渡し後の売却を検討する | 現況売却を軸に条件を詰める |
途中で答えが変わることもあります。連絡不通だった入居者から具体的な退去案が出れば、現況売却と合意後の売却をあらためて比べられます。逆に、いったん結んだ合意が守られなければ、現況売却や法的な明渡しへ切り替える判断が必要になります。
現状のまま売るなら「仲介」と「直接買取」を分けて比べる
滞納がある物件でも、売り方は2通りあります。事情を理解する投資家を不動産会社に探してもらう「仲介」と、不動産会社自身が買主になる「直接買取」です。
仲介は複数の買主候補へ声をかけられる代わりに、購入判断や融資に時間がかかり、途中で価格や条件が変わることがあります。直接買取は、条件が合えば売却までの期間を短くできます。ただし買取価格には、不動産会社が引き受ける再販売・法律問題・明渡しのリスクも織り込まれます。
そのため、査定は提示された金額だけでは比べられません。次の点まで並べて出してもらってください。
- 実際に買うのは誰か(投資家か、その不動産会社自身か)
- 仲介手数料がかかるか、決済はいつか
- 契約内容と実際が違った場合、売主がどこまで責任を負うか
- 売主が「事実です」と保証する範囲はどこまでか
- 明渡しや残置物の処分は、どちらが負担するか
支払いや退去の合意は、実行条件まで書面に残す
入居者に支払う意思があるなら、分割返済や任意退去を話し合う余地があります。ただし「来月から払います」「数か月後に出ます」という口約束だけでは、それが実行されるかどうかを買主が判断できません。
書面には、少なくとも次の内容を入れます。
- 滞納額と、その金額を確定した日
- 支払日、分割額、振込先
- 入金を、古い滞納分と今後の家賃のどちらへ充てるか
- 退去日、鍵の返却、室内に残した荷物の扱い
- 敷金、原状回復費、未払費用の精算
- 約束が守られなかった場合にどうするか
なお、貸主の代理人として退去条件を交渉する行為は、内容によっては弁護士以外が扱えない業務にあたります(弁護士法72条)。すでにもめている状態なら、管理会社や不動産会社に任せきりにせず、弁護士へ相談してください。
明渡し後に売るなら、売却価格より「手元に残る見込み額」を見る
空室にすれば、自宅用や建替え目的の買主にも売りやすくなる物件があります。ところが、売却価格が上がっても、明渡しや保有にかかる費用を引いたあとの金額まで増えるとは限りません。比べるべきは、価格ではなく残る額です。
税金を引く前の比較額
想定売却代金 − 売却費用 − 滞納対応・明渡し費用 − 売却までの保有費(ローン返済を除く)− 退去後の残置物・修繕費
ローン返済額と、売却益にかかる税金は、売却時期や所有者の条件で変わるため別に計算します。回収できる根拠を示せない滞納家賃は収入に入れず、「回収額0円」の場合も試算しておくと安全です。
家賃滞納物件の価格に、全国共通の値引き率はない
同じ滞納額でも、価格の下がり方は物件によって違います。買主が値付けの根拠にしているのは契約書に書かれた家賃ではなく、これから実際に入ってくる収入と、問題の解決にかかる費用・期間・不確かさだからです。だから「滞納ありなら何%引き」という共通の目安は成り立ちません。
賃貸物件の価格には、その物件が将来生むと見込まれる利益、つまり家賃収入から経費を引いた金額から逆算する求め方があります(収益還元法)。入ってくるお金が細く、しかも読めない。そう判断されれば、価格はその分だけ下がります。
| 買主が見る点 | 確認できない場合の影響 | 売主が示す資料 |
|---|---|---|
| 実際の入金 | 契約書どおりの家賃を収入として見込めない | 通帳、管理会社の送金明細、月別の入金台帳 |
| 保証の範囲 | 保証会社の支払いが続くか、誰が請求権を持つかが分からない | 保証委託・保証契約、事故報告、支払明細 |
| 明渡しまでの負担 | 費用も期間も、多めに見積もられる | 督促と連絡の履歴、弁護士の見通し、裁判書類 |
| 室内と残置物 | 修繕費や荷物の処分費を計算できない | 入居前の写真、修繕履歴、確認できた現在の状況 |
資料をそろえれば必ず高く売れる、という話ではありません。それでも、買主が「分からない部分」をまとめてリスクとして価格に上乗せする余地は減らせます。
影響の大きさは物件の種類でも変わります。一棟物件で1室だけ滞納しているのと、区分マンション1室の家賃が丸ごと入らないのとでは、収入全体に占める割合が違うからです。満室想定の家賃だけを渡さず、入居者からの実際の入金と、保証会社からの受取額を分けて査定に反映してもらいましょう。
現況売却と明渡し後売却を比べる仮想例
次の数字は、比べ方を示すための仮定です。相場や標準的な費用、特定の物件の査定額を示すものではありません。回収できるか分からない滞納家賃、ローン返済、売却益にかかる税金は含めていません。
| 比較項目 | 滞納を開示して現況売却 | 明渡し・修繕後に売却 |
|---|---|---|
| 想定売却代金 | 1,580万円 | 1,850万円 |
| 売却費用 | ▲65万円 | ▲75万円 |
| 法律相談・契約・明渡し関係費 | ▲15万円 | ▲130万円 |
| 売却までの保有費(ローン返済を除く) | ▲10万円 | ▲60万円 |
| 退去後の残置物・修繕費 | 0円 | ▲80万円 |
| 税金を引く前の比較額 | 1,490万円 | 1,505万円 |
売却価格は270万円も違うのに、費用を引いたあとの差は15万円しかありません。明渡しが3か月延びて保有費が月5万円ずつ増えれば、この差は消えます。
もちろん、任意退去が早く成立する、空室での売却価格がもっと高い、修繕費が少なくて済む。そうした条件がそろえば、明渡し後の売却が有利になります。先に結論を決めず、同じ査定日・同じ売却期限で、次の2条件を不動産会社に伝えてください。
- 現在の滞納、賃貸借、連絡状況をすべて開示して売る場合
- 指定日までに法律に沿った明渡しが終わり、室内を確認・修繕できた場合
価格に加えて、想定する買主、売却までの期間、売却費用、法律相談・修繕費、そして価格が変わる条件まで書いてもらう。ここまでそろえば、手元に残る見込み額と売却時期を具体的に比べられます。
立ち退かない入居者がいても、売却だけを理由に追い出せない
入居者が立ち退かないときは、まず理由を分けて考えます。「売りたいから出ていってほしい」のか、「家賃滞納という契約違反を理由に契約を解除したい」のか。この2つでは、必要な条件がまるで違います。
更新のある普通借家契約で、貸主から更新を断ったり解約を申し入れたりするには「正当事由」が必要です。貸主と借主それぞれが建物を必要とする事情、これまでの経緯、建物の使われ方、立退料の申出などを総合して判断されます(借地借家法27条・28条)。売却予定があるという理由だけでは、退去を強制できません。
家賃滞納を理由とする解除は、これとは別の問題です。支払いが遅れたという事実だけでなく、貸主と借主の信頼関係が壊れたといえるかどうかまで見て判断されます。
「3か月滞納すれば必ず解除できる」という法律はない
3か月という数字は、実務でよく語られるだけの目安です。国土交通省の相談対応事例集でも、信頼関係が壊れたかどうかは滞納期間だけでは決められないとされています。滞納の程度、滞納に至った事情、これまでの支払状況、解除を伝えたあとの対応まで含めて考慮されます。
解除するには、まず支払うための相当な期間を設けて請求し、その期限までに支払いがなかったことを確認したうえで、解除の意思を伝える。この順番が原則です。
明渡しまでの法的な流れ
入居者が自分から明け渡さない場合は、次の順で進むのが一般的です。事情によって請求の組み立てが変わるため、解除通知を送る前に弁護士へ相談してください。
契約家賃、共益費、入金日、一部入金、保証会社の支払いを、月ごとに照合します。
保証会社には報告期限と必要書類があります。契約に沿って早めに連絡します。
請求額、対象月、支払期限、振込先を書き、内容と配達状況を記録に残します。この請求を、法律上は「催告」といいます。
滞納状況と契約条項を踏まえ、催告と解除をどう進めるかを弁護士と確認します。
それでも退去しない場合は、裁判所に明渡しを求めます。
執行官が明渡しを求め、それでも明け渡されなければ、裁判所の手続きで強制的に明け渡してもらいます。申立てには、判決書など裁判所が指定する書類が必要です。
鍵交換や荷物の搬出を自分で行わない
契約を解除したつもりでも、裁判所の手続きを通さずに鍵を交換して締め出したり、室内の荷物を運び出したりしてはいけません。裁判所を通さず自分の力で権利を実現する行為を「自力救済」といい、原則として認められていません。違法と判断される可能性があります。
- 鍵を交換して入居者を締め出す
- 電気・ガス・水道を止める
- 室内の荷物を運び出したり処分したりする
- 勤務先や近隣住民へ滞納の事実を伝える
空室で引き渡す条件で売買契約を結んだのに明渡しが間に合わなければ、売主は約束した状態で物件を渡せません。空室を条件にするなら、明渡しが遅れた場合の期限延長、代金調整、契約解除、費用負担まで特約で決めておきます。
家賃滞納者と連絡がつかなくても、退去済みとは扱えない
電話に出ない。郵便物がたまっている。電気やガスを使っている様子がない。こうした事情がいくつ重なっても、「夜逃げした」「部屋を放棄した」と断定はできません。
最高裁は2022年12月12日、保証会社が一定の条件で物件を明渡し済みとみなせるとする契約条項を、消費者の利益を一方的に害する条項を無効とする消費者契約法10条にあたるとして、無効と判断しました。その条項は、2か月以上の家賃滞納に加え、手段を尽くしても連絡が取れないこと、電気・ガス・郵便物の状況から長く使っていないと認められることなどを条件としていました。それだけ細かく条件を並べても、無効とされたわけです。
連絡がつかず生活の気配が薄い。その程度の材料で、鍵交換や荷物の処分へ進んではいけません。
連絡がつかないときは「安否確認」と「家賃回収」を分ける
危険が疑われる場合
異臭、長期間たまった新聞や郵便物、室内からの異常音、漏水などがある状態です。
優先する対応:督促より安否確認を優先し、警察・消防、管理会社、緊急連絡先へ状況を伝えます。自分の判断だけで室内に入ってはいけません。
緊急性が見当たらない場合
連絡はつかないものの、生命・身体や建物への差し迫った危険は確認できない状態です。
優先する対応:契約上の連絡先へ順に連絡し、書面の配達・返送状況と、外から確認できた事実を記録します。
緊急性が見当たらない場合は、次の記録を残します。
- 契約書に書かれた電話、メール、住所へ連絡する
- 緊急連絡先、連帯保証人、保証会社へ必要な範囲で連絡する
- 請求額と期限を書いた書面を送り、配達・返送の状況を保存する
- 現地を確認した日時、確認者、外から分かる状況だけを記録する
- 管理会社が対応した場合は、電話・訪問・郵便の記録を受け取る
一方で、勤務先や近隣住民に滞納を伝えたり、短時間に何度も連絡したりするのは避けます。家賃回収に必要な範囲を超えて、入居者の個人情報を使ってはいけません。
混同されやすいのが、緊急連絡先と連帯保証人です。緊急連絡先には本人への伝言や安否確認を頼めますが、別に保証契約を結んでいない限り、滞納家賃を請求できる相手ではありません。
所在不明でも、裁判手続を進められる場合がある
必要な調査をしても居場所が分からない。そのときは「公示」という方法があります。訴状などを送る民事訴訟法110条の「公示送達」と、解除通知などを届いたものとして扱う民法98条の「公示による意思表示」は、名前は似ていますが別の手続きです。
住所は分かっていて、本人が郵便を受け取らないだけ。このケースでは、公示による意思表示を使えないことがあります。また、近いうちに裁判を起こすなら、訴状の中で解除の意思を伝えれば、裁判外の手続きが別にいらない場合もあります。
返送された封筒、調べた住所、連絡履歴は、そのまま手続きの資料になります。捨てずに一式を弁護士へ渡してください。
家賃滞納物件の売却前に、引継ぎ資料を6つに分ける
買主が身構えるのは、滞納の金額そのものより、その周りが見えないことです。いくら溜まっているのか、これまで何をしてきたのか、いま誰がどの権利を持っているのか。ここが空白のままだと、価格にも交渉にも響きます。資料を次の6つに分けると、足りない情報と確認先が見えてきます。
| ファイル | 入れる資料 | 確認すること |
|---|---|---|
| 1.賃貸借 | 賃貸借契約書、特約、更新書類、入居時資料 | 契約の当事者、普通借家か定期借家か、家賃、支払日、解除条項 |
| 2.入金・滞納 | 通帳、管理会社の送金明細、月別台帳、請求書 | 契約額、実際の入金、対象月、一部入金、遅延損害金 |
| 3.対応履歴 | 電話・メール・訪問の記録、督促状、配達記録、返送封筒 | いつ、誰が、何を伝え、相手がどう応じたか |
| 4.保証・敷金 | 保証契約、事故報告、代位弁済明細、連帯保証、敷金台帳 | 誰が請求権を持つか、保証範囲、引継ぎの可否、預かり敷金の残高 |
| 5.法的手続 | 弁護士への依頼内容、解除通知、訴状、判決、強制執行の書類 | いまどの段階か、売却後に誰が続けられるか、期限、次の費用、和解できる範囲 |
| 6.建物・管理 | 入居前の写真、修繕履歴、苦情、鍵、管理契約 | 室内をどこまで確認できたか、残置物、進行中の修繕、管理契約の扱い |
資料は、確認してもらう相手ごとに分けて渡す
同じ一式を全員に配るのではなく、相手の役割に合わせて渡す情報を絞ります。確認漏れも、個人情報の出しすぎも防げます。
管理会社
確認すること:実際の入金、送金漏れの有無、入居者への連絡履歴、苦情、修繕状況
受け取る資料:送金明細、対応記録、修繕履歴、管理契約書
保証会社
確認すること:事故報告の期限、保証の対象、支払済み・審査中・対象外の月、所有者が変わったあとの契約
渡す資料:保証契約、月別入金台帳、請求書、これまでの報告記録
不動産会社
確認すること:現況売却と明渡し後売却の価格・期間・費用、想定する買主、売買契約に書く条件
渡す資料:個人を直接特定しにくい形にした6種類の資料。詳しい個人情報は、必要性を確認してから開示します。
弁護士
確認すること:契約解除、明渡し、滞納家賃の請求権をゆずる手続き、売却後に訴訟や強制執行を続けられるか
渡す資料:契約書、月別入金台帳、連絡・郵便の記録、保証・敷金資料、進行中の裁判書類
滞納と連絡の履歴は、1本の時系列にまとめる
通帳、管理会社の報告、メールがばらばらに保存されていると、買主も弁護士も経過をつかめません。確認できた事実だけを、推測と混ぜずに日付順で並べます。
家賃9万円の物件で、2月分が入金されなかった場合の記入例です。日付や金額は仮定です。
- 1月31日|支払期日
2月分9万円の入金なし。通帳と契約書を確認し、管理会社の送金漏れがないか調べる。 - 2月2日|管理会社へ確認
入金も送金もないとの回答。メールを保存し、本人へ電話・メールで連絡する。 - 2月3日|本人へ連絡
電話は留守番電話、メールの返信なし。発信・送信履歴を保存し、保証会社へ報告する。 - 2月5日|保証会社が報告を受領
保証されるかは審査中。受付メールを保存し、本人へ書面を送る。 - 2月10日|請求書を発送
2月20日を期限として9万円を請求。書面の控えと配達記録を保存する。 - 2月21日|期限後も入金・連絡なし
通帳と連絡履歴を確認し、契約書を含む資料一式を弁護士へ渡す。
「悪質」「夜逃げ」「払う気がない」といった評価は、確認できた事実と分けます。台帳に必要なのは感想ではなく、日付、金額、証拠、次の対応です。
そして、滞納家賃は放っておくと時効で消えます。いまの民法では、権利を使えると知った時から5年、または使える時から10年で消滅時効にかかり、家賃は月ごとの支払期日から数えていきます(民法166条)。古い滞納ほど、月単位で期限が近づいている状態です。
とはいえ、期間が過ぎた瞬間に権利が消えるわけでもありません。入居者が「時効を使います」と意思表示して、はじめて消えます。これを「時効の援用」といいます。逆に、督促状を送れば期限が振り出しに戻る、というのも誤解です。請求によって先送りできるのは、原則6か月だけです(民法145条、150条)。
2020年4月1日より前に発生した分には、移行期のルールが残っています。何年も前の滞納を抱えているなら、月別の台帳ごと弁護士に見てもらってください。
売買契約では、滞納家賃と明渡しの担当を明記する
「今の状態のまま引き渡す」とだけ書いても、滞納家賃を請求する権利、敷金、進行中の裁判の扱いまでは決まりません。売買契約書や特約、開示資料には、少なくとも次の8項目を書き込みます。
1.売買契約前
滞納額、敷金、保証会社の支払い、進行中の手続きを確定し、買主へ開示します。
2.契約から決済まで
追加の滞納、入金、退去といった変化を記録し、報告方法と価格調整を決めます。
3.決済・引渡し後
契約書、鍵、連絡履歴を買主へ渡し、入居者へ新しい貸主と振込先を知らせます。
- 滞納額と基準日
月別の家賃、共益費、遅延損害金、入金をどの月へ充てたかを、別紙で特定します。 - 滞納家賃を請求する権利の行き先
売主に残すのか、買主へゆずるのかを決めます。ゆずる場合は対象を特定し、入居者への通知または承諾など必要な手続きを行います。 - 保証会社による支払い
支払済み、審査中、保証対象外の月を分け、誰が請求権を持つかを確認します。 - 敷金の精算
預かり額、未払家賃などへ充てる額、買主が引き継ぐ残額を入居者ごとに確定し、売買代金で調整するか別に渡すかを決めます。 - 進行中の督促・裁判・強制執行
費用と和解金・回収金を誰が負担し、誰が受け取るかを決めます。売却後に誰が手続きを続けられるか、取得済みの判決を買主が使えるかは、決済前に弁護士へ確認します。 - 契約から決済までに状況が変わった場合
追加の滞納、入金、退去、死亡、破産、保証会社の支払いが起きたときの報告方法と価格調整を決めます。 - 入居者情報の扱い
誰に、何の目的で、どこまで開示するかを決めます。売買が成立しなかった場合の返却・削除も定めます。 - 決済後の通知と書類の引渡し
契約書原本、鍵、連絡履歴、新しい振込先の案内、入居者への通知方法を決めます。
オーナーチェンジでは、賃貸借の内容と滞納状況を買主へ説明しなければなりません。滞納家賃や敷金・保証金の扱いを売主と買主で調整し、契約書と重要事項説明書へ明記しておきましょう。
入居者の個人情報は、売却の段階に応じて開示する
購入を検討している人全員に、入居者の氏名、電話番号、勤務先、保証人情報まで渡す必要はありません。初期の資料は、部屋番号、契約の種類、家賃、支払状況、滞納月数など、個人を直接特定しにくい情報を中心にします。
購入希望者が調査するために必要な範囲であれば、入居者の個人データを提供できる場合もあります。その場合は、利用目的、情報の扱い方、漏えい時の対応、交渉が成立しなかったときの措置を、契約で決めておく必要があります。
秘密保持を確認してから見せる資料、閲覧だけにする原本、決済時に買主へ渡す情報。この3つに分けて管理しましょう。
家賃滞納物件を任せる不動産会社は、査定額より前提を比べる
滞納物件では、査定額の高さだけで会社を選べません。「入居者は退去する」「滞納家賃は全額回収できる」「室内に修繕は必要ない」。まだ決まっていない条件を前提にした査定なら、その価格で売れる保証はどこにもないからです。
候補となる会社には同じ6種類の資料を渡し、次の質問への答えを比べてください。
- 現状のまま仲介する場合、どのような買主へ販売しますか。
- 直接買取の場合、実際に買主となる会社はどこですか。
- 査定で見込んだ実入金、未収金、保証会社からの入金、運営費はいくらですか。
- 現況売却と明渡し後売却で、価格・期間・費用・条件はどう変わりますか。
- 滞納家賃、敷金、保証契約、進行中の手続きを、契約書のどこに書きますか。
- 決済前に入金・退去・裁判の状況が変わった場合、誰へいつ報告しますか。
- 入居者の個人情報を、どの段階で誰に開示しますか。
- 法律判断が必要になった場合、弁護士とどう役割を分けますか。
家賃滞納物件の売却でよくある質問
まとめ
家賃滞納中で、入居者が立ち退かない、連絡がつかない。その状態でも物件は売却できます。ただし、売却前の滞納家賃、貸主としての権利と義務、敷金、明渡しの手続き。これらがまとめて自動的に買主へ移るわけではありません。
だからこそ、まず資料を6つに分けます。賃貸借、入金・滞納、対応履歴、保証・敷金、法的手続、建物・管理。その同じ資料で、現況売却と明渡し後売却について、価格だけでなく費用、期間、手元に残る見込み額、契約条件まで比べてください。
連絡が取れなくても、鍵の交換や荷物の処分を自分の判断で行ってはいけません。契約解除、明渡し、滞納家賃を請求する権利をゆずるかどうか。ここに判断が必要なら、不動産会社へ査定を依頼するのと並行して、賃貸借を扱う弁護士へ資料一式を渡しましょう。
- 異臭・漏水などがあれば、売却や督促より安否確認を優先する
- 保証会社への報告期限を確認する
- 6種類の資料をそろえる
- 同じ条件で「現況売却」と「明渡し後売却」の査定を取る
- 解除・訴訟・債権譲渡が関わる部分を弁護士へ確認する
